2002-02-21 第154回国会 衆議院 予算委員会 第15号
出席者、先方は日本工営株式会社地域計画部の山田部長、当方は、支援委員会事務局の林次長、植原第一事業部長、岩本、そして、オブザーバーとして外務省ロシア支援室の宇山首席事務官が参加をしております。この文書が事実とすれば、作成された九九年十一月二日というのは、友好の家が竣工したすぐ後の時期であります。
出席者、先方は日本工営株式会社地域計画部の山田部長、当方は、支援委員会事務局の林次長、植原第一事業部長、岩本、そして、オブザーバーとして外務省ロシア支援室の宇山首席事務官が参加をしております。この文書が事実とすれば、作成された九九年十一月二日というのは、友好の家が竣工したすぐ後の時期であります。
昭和二十二年、現在の地方自治法が制定されたとき、当時の植原内務大臣は、その提案理由の中で地方自治法を地方自治に関する憲法附属の法典と位置づけ、翌二十三年、さらに地方分権を進めるべく同法は改正され、その第二条に国と地方の果たすべき権限をそれぞれ個別に列挙したのであります。
中身が大変長うございますので要約をいたしますと、小選挙区になれば必ず醜い争いになる、この弊風を除去するには選挙区を拡大する以外はない、小選挙区に対しての植原悦二郎先生の御意見であります。 同じく大正八年の改正、これは三木武吉先生の御意見であります。小選挙であるからといって費用が少ないということは言い得ないとえんきょくにあらわしております。
これは山梨でも有名な植原葡萄研究所なんかで、もうこれ以上のブドウはできないだろうといわれるくらいの実は推奨している品種なんです。ところが、これは早くに農林省へ出しているけれども、申請していてなかなか許可にならなくて、後から同じものをレッド・クイーンだとか何とかいろいろな名前をつけて出したのが品種登録で許可になっている。それは違うと農林省は言うんですが、今そんなことどこでも認めません、だれも。
地方自治法の制定において、知事及びその部下の職員の身分は、これを名実ともに地方自治体の職員とし、地方団体の住民及び議会に対して責任を負担し、住民の福祉の増進に努めさすこととしたと述べた当時の植原国務大臣の意図は、今日ますます意義あるものとなっているのであります。
犬養健、植原悦二郎、松岡駒吉、星島二郎、北村徳太郎、黒田寿男、末端に至って小林進というふうになってくるのでありますけれども、こういうようなそうそうたる名士が入って、そしてこれをひとつ撤廃しようという運動が始まっておる。 もう時間がありませんからなんでありまするけれども、それに対して、実に歴代の大蔵大臣が全部撤廃の方向で回答しているんだ。
(拍手) 第九十回帝国議会に初めて本院議員として議席を得られた先生は、第一次吉田内閣の植原国務大臣、星島国務大臣の秘書官に任ぜられ、政治の要諦を体得するとともに、日本国憲法の制定を初め、憲法付属法規の制定に参画されたのであります。しかるに、昭和二十二年三月、突如公職追放の指令を受け、三年余にわたり雌伏のやむなきに至りました。
○塩出啓典君 これは長官に私お願いしておきたいわけでありますが、特に自主技術の開発ということも先ほど言われたわけでありまして、この間佐賀大学で温度差発電——海の表面と下との温度の差を利用する温度差発電、これは工業技術院の予算で研究が進められて、植原先生が中心になって、先般五十キロワットの発電に成功しておりますね。
戦後、昭和二十一年に、貴族院議員で当時の内務大臣植原悦二郎氏は、戦争の場合、その戦争が本当に国家の利益にならぬという場合にはその戦争に反対して闘うということをしなければ民主政治はできないということを言った時代がある。そういうことを国会で公然と当時の大臣が述べていた時代から三十年たって、侵略戦争についてもろくに言えない。暗黒政治の問題についてもろくに言えない。
高崎工事事務所に起きた事件でありますが、植原君という人は現在行政(一)の七等級の十二号俸である。彼の後輩、これは三年か四年あとに入った者もすでに六等級になっているが、それは何の理由かというと、植原君が分会役員であったから昇給させなかったのだ、こういうふうに申請されております。
そういうことを申し上げますのは、保守党のかつての外交界の長老植原悦二郎氏が当外務委員会で述べたことばを御紹介したいと思います。
切磋琢磨することが必要でありますから、はっきり申し上げておきますが、千島の問題につきましは、かつて、私どもも党は違いますけれども与党ながら尊敬しておりました植原悦二郎氏が外務委員長でありましたころ、鳩山さんと相呼応いたしまして、法理的には、国際法的には、沖繩と違って合法的手順を経てすでに放棄しておる、放棄したものをだれが拾ったかということは第二の問題であって、拾ったほうの側で適当に相談してどうやら合意
古いところでは、松岡洋右氏、胎中楠右衛門氏、井上雅二氏、植原悦二郎氏、松本瀧藏氏、山道襄一氏等、いずれも、多年南米、北米に居住せられ、帰国後国会に出られまして、日本民族の海外移住に関してたいへん御熱心な努力をされたことを思い出してもらいたい。
から第五十一回列国議会同 盟会議及び同執行委員会についての報告 議員控室の件 議席の件 会期の件 小委員会設置の件 小委員及び小委員長選任等に関する件 特別委員会設置の件 議場内交渉係の件 議事進行係の件 開会式に関する件 国務大臣の演説に関する件 国務大臣の演説に対する質疑の件 故細田義安君、故小川豊明君及び故橋本龍伍君 に対する追悼演説等の件 元副議長井上知治君、同植原悦二郎君及
○佐々木委員長 次に、弔詞贈呈の件についてでありますが、元副議長井上知治君が去る九月十九日に、また、永年在職議員として表彰されました高見之通君が去る十月三十日に、また、永年在職議員として表彰されました元副議長植原悦二郎君が去る二日に逝去されました。 ここにつつしんで哀悼の意を表します。
永年在職議員として表彰された元本院副議長植原悦二郎君は、去る十二月二日逝去されました。 まことに哀惜痛恨の至りにたえません。 六君に対する弔詞は、それぞれ先例により議長において贈呈いたしました。今これを朗読いたします。
それから一つ希望を申し述べておきたいのですが、第一回の会議のときには、私たち左派社会党が提唱しまして、アジア・アフリカ会議は、むしろこれこそ超党派的に問題を進める恰好の題目であるから、われわれ野党もこれに積極的に参加をしたということを申し入れました結果、当時は与野党の代表が、たとえば自由党の灘尾氏、それから、そのときには分裂していた、分け自由党と言いましたが、そこから植原悦二郎氏、それから左派社会党
ソ連と平和宣言を結んで、やがて国際緊張の緩和、そして米ソ対立の緩和の線に沿うて野党の協力をも得て、何らかの話し合いをさらに進めたいというお考えのようであったし、外務委員長であった植原悦二郎さんの話は、先日私が朗読した通りです。
従って、鳩山さん、すでになきあとですから、仕方がありませんから、植原悦二郎氏はまだ隠棲して健在でございますから、植原さんのつめのあかでも、イギリス外交のつめのあかでも、私はせんじてお飲みになったらよかろうとまで言いたい思いがいたすのであります。 時間がありませんから、最後に一つ、商工省、外務省、大蔵省にそれぞれお尋ねいたしたいのですが、これも大体党派を離れての問題であります。
私は当時はそれの善悪は別として、とにかく日本政府はこのことに深く触れず、そうして千島を放棄し、その請求権すら放擲しておりながら、今度与党が決定したような方法において主張するとすれば、これは外交の先輩のただいま朗読した植原悦二郎氏の論理から考えましても、私は、聡明なる自民党の中の外交のベテランの中には、この問題に対しては日本の信用上異議をいわれる政治家も多かろうと思います。
その後、鳩山さんがとにかくとりあえず国交の回復をソ連としようと言ったときに、植原悦二郎氏は——保守党における私どもの最も尊敬している合理的頭脳の一人ですが、植原悦二郎氏は外務委員会で次のように言っております。私は与党の方にもこれは冷静に聞いていただきたいと思う。皆さんの先輩の植原悦二郎氏はそのときの外務委員会で、千島列島のことは残念ながらすでにサンフランシスコ条約の際に解決済みであります。
私は念のために、だからあのときの本会議における衆議院の特別委員長の植原悦二郎氏のこれは委員長報告を読んでみたいと思います。こう言っておるのです。
篠田弘作君紹介)(第二七六 四号) 二六七 同(町村金五君紹介)(第三八〇八号) 二六八 同(保利茂君紹介)(第二八三〇号) 二六九 同(淵上房太郎君紹介)(第二八六二 号) 二七〇 農地改革による旧地主に対する補償反対 に関する請願外六十六件(石田宥全君紹 介)(第二七五七号) 二七一 蚕糸業の危機突破対策強化に関する請願 (井出一太郎君紹介)(第二七五九号) 二七二 同(植原悦二郎君紹介